「橋本政屋」 物語

 

ここ「橋本政屋(はしもとまさや)」は、横に流れる大沢川の橋のもとで、政衛門(まさえもん)が始めたことから「橋本政屋(はしもとまさや)」と名が付けられました。甲州街道の終点に近い、江戸より五十二、五里に位置し、茶屋を営み、旅人の往来が賑やかな場所で、時には諏訪のお殿様もお忍びで来られ、二階より諏訪湖を一望しながら料理を楽しまれたそうです。 

 


建物の歴史は古く江戸時代にまで遡ります。茶屋とは、現在で言うところの「料亭」のことであり、鯉、ふな、うなぎ、といった諏訪湖で獲れた魚料理をご馳走としていたそうです。

 「橋本政屋」の当主である長崎正衛門は、大変人情が厚く、駕籠屋や馬方といった人足達には、大鍋で煮たアラ料理(お客様に出した料理の残りの部分、魚の頭や骨)をただで振舞っていたそうです。人足達は、そのアラ料理を無料で腹いっぱいご馳走になることで、力がつき和田峠も軽々と越えられたそうです。このアラ料理の噂は、人足達の間では評判となり「橋本政屋」は大繁盛したそうです。大繁盛のおかげもあり大きな財を成すことで、諏訪のお殿様とも精通し帯刀(たいとう)に裃(かみしも)、といったいでたちで表門からの登城を許されていたそうです。

 

 

表には、高島城三の丸門を、庭には、大きな石灯篭、そして老松(樹齢約二五〇年以上)と、紅白に咲き乱れる老梅を高島城主より譲り受け、その緑の深さを物語っております。

建物内部を見渡すと、一階の壁や欄間(立川流)、そして二階の矢羽根の廊下など細部の至るところまで、当時としては、贅沢極まりないほどの素晴らしい繊細な仕事ぶりが見て伺えます。

昭和の時代には、映画の撮影にも頻繁に使用されました。欧州の若者たちからは、古きよき時代を感じる建物として大変喜ばれ、彼らは「 サ ム ラ イ ハ ウ ス 」と呼び、多くの外国人が訪れました。

 

 

また、敷地内にあります土蔵は大変立派な蔵だと、人々に言われております。 

開き戸の上に龍、左扉には亀、右扉には鯉と全て縁起のよい、そして勢いのある生き物が描かれております。これらは漆喰を小さなコテで何度も塗り重ねて作られており、コテ絵の芸術品として、コテ職人の技が今でも残っております。もちろん時間もお金もかかり手間も大変かかったそうです。

人足達は、旅の往来時にこのお蔵に必ず立ち寄り、手を合わせ拝んでいたそうです。何故ならこのお蔵に描かれている龍、亀、鯉には「力が借りられる」と言い伝えがあり、力蔵(りきぐら)と呼ばれ、それは、左の扉から時計回りに、それぞれの頭文字をとり、

 

力(ちから)を、

 

カ  (開き戸の左扉にある亀の「カ」)

リ  (開き戸の上にある龍の「リ」)

テ  (お蔵の正面に手を合わせ立った自分の「テ」)

コイ (開き戸の右扉にある鯉の「コイ」)


と洒落た謎かけになっていたそうです。

 

この「橋本政屋」の力蔵の前で手を合わせずに和田峠に向かった人足が、途中峠を越えられず、へとへとになていたところ、通りかかった虚無僧に「橋本政屋の蔵で手を合わせたか」と聞かれるほど、この言い伝えは浸透していて、歴史を秘めたパワースポットとなっています。

 

どうぞ皆様も是非、力蔵の前でお手をあわせてみてはいかがでしょう。

きっと大きなお力をお借りすることができることでしょう。